気相化学反応動力学


「化学反応動力学」とは

  「化学反応」といわれてふつうに思い浮かべるのは、無色の液体と無色の液体を混ぜたら赤やら青やらのキレイな色の液体ができ上がる。そんな、まさに「化学変化」が起きていることが実感できる光景ではないでしょうか。こうした色の変化といった目に見える現象の実態をになっているのは、原子や分子の衝突による結合の組みかえです。しかも、そうした結合の組みかえがたった一回だけでなく何回も何回も起きて、最後に無色の液体から色の着いた液体が生まれるわけです。
  それではそうした一回毎の衝突はどんな風に起きているのか、それをできるだけ詳しく見てやろうというのが「化学反応動力学」という研究分野です。たった一回の衝突の結果がどうなっているのかを詳しく知れば、何回もの衝突の結果がどうなるかもっと見通し良くわかるだろうし、何よりもたった一回の衝突の結果というのは、それだけ単純で純粋な過程ですから、化学反応という現象を突き詰めた本質的な事柄がそこに秘められているに違いないと考えたわけです。


「化学反応を詳しく見る」とは

  ここで「化学反応を詳しく見る」ということは具体的には、反応で新しく生成した分子がどれだけの速さで別れて跳んでいくのか、どれだけ激しく振動したり回転したりしているのかというレベルで反応を観察しようということです。そして、こうした反応の結果が、反応がはじまる前にどれだけのエネルギーをどういう風に与えるかによって、どう違ってくるのかを調べようというわけです。最近ではそれだけでは満足できなくなって、反応が起きる衝突のために分子同士が近づいてきた方向に対して、反応で生成した分子がどんな向きに回転しどんな方向に跳んでいったか、そんなレベルで反応を観察しようとしています。
  このようなレベルで化学反応を観測するには、実験をする際に工夫しなければならないことが幾つかあります。
  まず第一に反応で生成した分子が周りにいる他の分子と衝突する前に、こうした測定が終了しなければなりません。反応で生成した分子が周りにいる分子と衝突して新たな反応を起こして、更に別な分子に変わってしまったのでは具合が悪いのは当然です。しかし、たとえ新たな反応が起きなくても、反応で生成した分子が跳んでいる速さや方向、振動や回転の激しさ及び回転の方向といったことは、周りの分子との衝突によって、反応直後の「できたてのホヤホヤ」の時とは違うものになってしまいます。私達は反応で生成した分子について、まさにその「できたてのホヤホヤ」の時の様子を知りたいのです。


どうやって「化学反応を詳しく見る」か

  反応で生成した分子が周りの分子とすぐに衝突しないようにするために、分子の密度が低い状態、すなわち気体の分子の反応について研究を行います。一口に気体といっても大気圧程度ではまだまだ分子密度が高いので、大気圧の約一万分の一程度の圧力(いわゆる一つの真空)の条件で実験を行います。
  周りの分子と衝突する前に反応で生成した分子を観測するためには、そもそも反応がいつ起きたのかがハッキリしないといけません。ですから混ぜたらすぐに反応が起きてしまうような場合には「反応を詳しく見る」ことができません。反応がいつ起きたかをハッキリさせる実験方法はいろいろありますが、私達はレーザーを使います。例えばAという原子とBCという分子が衝突してABという分子とCという原子に別れるような反応について調べたいときには、AXという分子とBCという分子を混ぜておき、このAXをレーザー光線でエネルギーを与えることでAとXに壊してしまいます。
  一万分の一気圧程度の真空では、レーザー光線によってAXからAができてから100ナノ秒(千万分の一秒)ぐらいたつ頃には、何割かのAはBCと衝突して反応を起こし、その結果ABに変化します。もう100ナノ秒ぐらい経つと、この生成分子ABのうち何割かが周りの分子と衝突して、できたてのホヤホヤ状態ではなくなってしまいます。そうなる前にABが跳んでいる速さや方向、振動や回転の激しさ及び回転の方向を調べるために、もう一つの別なレーザー光線をABに照射します。ABが跳んだり振動したり回転している運動の情報は、ABがレーザー光線のエネルギーやその他の様々な性質などに対して、どういう振る舞いをするかによって知ることができます。
  どちらのレーザー光線とも10ナノ秒(一億分の一秒)程度の時間幅のものを、100ミリ秒(十分の一秒)に一回ぐらいの頻度で発生させているので、毎回毎回、でき立てのホヤホヤ状態のABを観測することができるわけです。
  反応で生成した分子がどれぐらい激しく振動したり回転しいるか、特にどんな向きに回転しているか、そういった情報を得るには観測する生成分子が二原子分子の場合に非常に詳細に調べることができます。したがって反応に関わる原子数が余り多くない単純な反応が興味の対象になります。


「化学反応を詳しく見た」ら本当に...

  さて、それではそのように「化学反応を詳しく見る」ことによって、本当に化学反応がもっと良くわかるようになるのでしょうか。この当たり前の問いかけに対して、自信を持って「そうです」と答えるには、ただ漠然と「反応を詳しく見る」だけでは足りないようです。それは、いくら「化学反応を詳しく見る」といっても、反応の前の条件と反応の後の結果を見ているだけであって、反応の真っ最中、上の例ならABCが一つの分子のようになって運動しながら、ABという新たな結合ができるとともに、BCという古い結合が切れていくその様子そのものを見ているわけではないからです。
  現実には、「反応を詳しく見る」今日の実験結果を説明するために、「反応をちょっとだけ詳しく見た」程度の少し前の時代に憶測されていた事柄が、色々と組み合わされて使われていることが多いのです。また限られた条件の中で「反応を詳しく見過ぎる」と、反応毎の特徴的な事柄に拘泥するあまり、化学反応の普遍的な部分の説明をつけることから遠ざかってしまうこともあります。
  「反応を詳しく見る」ことが可能な、全部で三個か四個ぐらいの原子しか関わらないような反応については、電子計算機を使って現実をかなり再現することが可能になってきました。そのため、実験と計算の結果の非常に細かな答え合わせができるのですが、答え合わせだけに陥いらないように気をつけないといけません。一方、現実を再現する理論計算が可能になって全てお見通しになるかというと、膨大な計算の途中経過から、何が起きているのか、何が効いてそうなるのかについてハッキリとしたことが引き出せているとは限りません。しかし、将来そうしたことは可能になるはずですし、そういうことが可能になるために、分子がどんな力を感じながら運動するか(ポテンシャル曲面)について計算に使った条件が正しいかどうかの検証として「反応をとても詳しく見る」ことは意味を持ってくるとは思います。


「化学反応を詳しく見る」ことについての私達の視点

  そうはいっても、理論計算がなければ何も言えないのはとても寂しいですし、反応にかかわる原子数が少し大きくなっただけで理論計算の精度は落ちてしまいます。そういった反応について、「反応をちょっと詳しく見た」時代の概念がいまだにあまり疑問を持たれずにそのまま使われているですが、本当にそれで良いのか、実験結果に合わせて都合良く使われていないか、そういったことを地道に問い直すことが私たちの一つの姿勢です。
  また反応の途中で分子がどう振舞うかについて、ポテンシャル曲面の詳細によらずに統計的に反応が進むものとして、かなり単純な計算によって反応の速度や生成分子の振動や回転の運動の様子を統計的に扱って予測する理論があります。こうした統計的な理論がどういう場合にどうして成り立つのか、理論が仮定しているようなことが本質的に起きているのか、それともたまたま結果が合っているだけなのか、そういった問題についても我々なりの切り口で化学反応を突き詰めたいと思います。


「気相化学反応の動力学研究」第39回分子科学夏の学校予稿 1999年(改訂版 ただし未完)